正社員フリーター × 複業のBLOG

出世を目指すのとは違う、自由に働く努力 それが正社員フリーター × 複業(副業)

拙著『積極的副業人材』 http://amazon.co.jp/dp/B08BNJP42X/ 出世を目指すのとは違う、自由に働く努力。それが正社員フリーター × 複業。誰でも、もっともっと自由に働ける。外資 × バックオフィスで自由な正社員を20代から実践。40代後半になって、働き方、転職、複業(副業)のアウトプットを始めたこの頃。働き方の流行には注意喚起もする。 Twitter @ISehaooooo

【1社目】サラリーマンが来た、見た、負けた! ①

「来た、見た、勝った( Veni, vidi, vici )」はカエサル。
ローマ軍の勝利を伝えた。
筆者にとって社会人1年目は、「サラリーマンが来た、見た、負けた」だった。

入社5週目には、正式に営業に配属となり、口ヒゲのC営業部長が筆者の上司となった。
このC営業部長が、筆者にとって初めての上司だ。
営業には入社1年半ぐらいの女性の営業主任(D営業主任) がおり、 C営業部長と二人三脚だった。
「二人三脚」 と表現すると、 D営業主任はきっと今でも100%怒るだろう。
D営業主任は、C営業部長が大嫌いだった。
そもそもC営業部長は、社内全員に嫌われていた。
本当に嫌われていた。
先輩女性社員達が、C営業部長問題と称して、B副社長を交えて何度も会議を重ねていた。

20年超の時を時を経て、C営業部長が嫌われていた原因を改めて考えてみる。
とは言っても、時間を使って長く深く考えるような事柄でもない。
一言で言えば、彼は劣等感の塊で卑屈だった。
卑屈なら卑屈でご本人の心の中に留めていればいいのに、そうはいかなかった。
社内外で、「全身卑屈サラリーマン」を宣伝して歩いているようなお人だった。
池袋西口のオフィスの近くには場所柄、パチンコ屋が多かった。
パチンコ屋の店舗と同レベルで派手な「全身卑屈サラリーマン」だった。
そんなご本人なので、社内、社外問わず卑屈な対応のオンパレードだった。
詳細は割愛させて頂く。
あまりにもレベルが低い話しかない。

当時C営業部長は30代後半だった。
まだお若いのに、お先真っ暗なサラリーマン人生を長く歩まれている。       

これから先も真っ暗のようだった。
絶対に道連れされないようにと、若い筆者は思った。
いつの間にか、C部長の前では身構えるようになった。
年を重ねた現在の筆者なら、C営業部長の生き様に同情することもできる。
サラリーマンは基本、「僻み、妬み、恨み」をベースにした可哀そうな生き物と十分理解しているからだ。
当時の筆者には、「サラリーマンが来た、見た、負けた」 といった経験だった。
C営業部長の 日々の 「僻み、妬み、恨み」の積み重ねを見て、勝手に負けていった。
弱かった筆者がいた。

筆者にとって初めての上司のC営業部長、筆者にとって仕事で最初で最後の経験もたくさん提供してくれた。
コピーを取らさせたのは、C営業部長が最初で最後だ。
コピーを頼まれると、筆者は嫌な顔を堂々とした。
「そんな嫌な顔するなよ」と、やや不機嫌な顔をしながらいつも言われた。
小さなオフィスですぐそこにコピー機があるから、自分でやればいいだろに。

オフィス・スペース以外の場所で、上司に毎日報告。
これも最初で最後の経験だ。
オフィスのある雑居ビルの屋上で、C営業部長に営業報告。
C営業部長がタバコを吸いたいからだ。
18時に営業から帰ってきて、18時半頃から屋上に連れ出されての営業報告。
営業した相手の名刺と、会社既定のフォーマットに手書きで簡単なコメントを書いた表を提出した。
C営業部長は咥えタバコを吹かしながら、人を小馬鹿にした態度で報告を聞いていた。
仕事の報告なのだから、きちんとオフィスで話を聞けよ。
筆者は憤った。

C営業部長と営業を同行すれば、オフィスから池袋駅までの道順は、わざわざ風俗街のある小道を通った。
女性のD営業主任が同行する時も、風俗街をわざと歩いた。
わざわざ人に嫌われるようなことをしていた。

C営業部長は今はどうされているのであろうか?
今はもう60歳に手が届いたと思う。
A社長と同じ会社の出身で、A社長が立ち上げたベンチャーに営業の責任者として参画し、筆者はそこで出会った。
筆者にとっては懐かしい人物で、是非お会いしたいひとりである。

C営業部長の下で、95年5月から96年1月までの9ヶ月間、筆者は営業を経験した。
現在のところ、最初で最後の”営業”の肩書きだ。
(つづく)

 

「全身卑屈サラリーマン」は眩しかった!

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