このブログも開始して2ヵ月となった。
”書くことは人を確かにする。”
皆様、引き続きよろしくお願い致します。
社会人1年生、 サラリーマンが来た、見た、負けたの実践の日々だった。
そのサラリーマンはC営業部長だった。
我ながら幼かったことも確かだった。
毎日毎日、半ば飛び込みの営業で歩き疲れた。
夏場のスーツにネクタイで1日中外回りは、今では信じられないほど非生産的な格好だった。
ただ歩き回る営業自体もつまらないものだった。
ちょうど会社のメディア事業部が、個人向けの海外ホテル予約サイトを立ち上げてることを決定した。
1995年は11月に Microsoft Windows 95が日本で発売。
「インターネット」という言葉がその年の新語・流行語大賞の上位に入り、 インターネット時代の幕開けの年であった。
「インターネットから予約を受けつけることができるのなら、旅行代理店の多くは不要になるのではないか。そうすれば、馬鹿みたいに歩きまわる このつまらん営業の仕事もなくなる」と、筆者は真面目に考えた。
当時の筆者は、取引先である旅行代理店にも嫌悪感を持つようになっていた。
自分がイジメられたからではない。
当時、旅行客がツアー代金を振り込んだのに、航空会社やホテルにその代金を振り込まず、倒産をした会社がいくつかあったからだ。
夜逃げ的な、新聞に載らない規模の小さな会社もいくつもあった。
代金を振り込んだ旅行客の多くは泣き寝入りだ。
なんていい加減な業界だと思った。
「インターネット予約が普及して、代理店は淘汰されればいい」と、青臭く思っていた。
さて話を戻す。
筆者はC営業部長の人格を疑うようになった。
筆者が一番頭に来たのは、「靴をみせてみろ。もっと高い靴を買え。安い靴だから歩き疲れるんだ」と言われた時だ。
両親が就職祝いで買ってくれた靴に向かって言われた。
本当に何かものを投げつけたくなった。
ぐっと我慢した。
何でA社長はこんな失礼な男を連れてきたのだろうか?A社長は礼儀作法に特に煩いのにと思いながら、会社の諸先輩方に疑問を投げかけてみた。
「谷川君、それはね。C営業部長は、前職でA社長のイエスマンだったからここに連れて来られたの。C営業部長は他社のどこにも行けないから、 会社にしがみつくしかないのよ。どんなことをされても、100%A社長の言うことを聞くしかないの。」
と、教えてくれた。
「なるほど、C営業部長は A社長の奴隷なのか」と、筆者は単純に納得した。
「俺は取締役だ。ただ営業で現場に回るときは相手が身構えないように、取締役の肩書を外した別の名刺を渡している。」
自慢気にC営業部長が繰り返したこのフレーズ、筆者はいつもちょっとニヤリとさせて頂いた。
「あなたは、A社長から取締役の肩書を与えられて、ボロ雑巾のようにコキ使われているだけでしょう」と。
会社の株すらも与えられていないであろうC営業部長、もといC取締役営業部長。
頭もなく、人の失敗が大好物で、皆から嫌われ、なんの夢もなさそうで可哀そうな方であった。
筆者は次第にC営業部長に同情すらするようになった。
また同時に、本当に悪いのはA社長だなと思うようになった。
入社半年過ぎたある日のこと、筆者は A社長から「毎日何時ごろ帰宅しているのか?」と尋ねられたことがあった。
「就業時間が18時なので、18時30分には帰るようにしてます」と答えた。
「早えな」と A社長。
筆者はムッとした顔を返した。
筆者は、社会人人生の中で自分の勤務時間をあれこれ言われるのが一番嫌いだ。
何時から働いて何時に帰るか決めるのは、自分であって、他人ではない。
就業規則を守っていればそれで良しだ。
今でも勤務時間が長いのを良しとする、アホな概ね筆者より年配の見事なオワコン・サラリーマンは一定数お見受けする。
A社長の 「早えな」 発言から20年以上、何人かにこの 「早えな」 発言を頂いたが、筆者は一貫して反発していった。
人に自分の使う時間をとやかく言われるのが、とても嫌いなのである。
さて、営業4人はまともにチームになってなかった。
D営業主任は、C営業部長を無視。
C営業部長は、 D営業主任のアラ探しで応戦する。
同期のE君は真面目なので、C営業部長の的を得ない指示に混乱していた。
C営業部長は、オロオロするE君の姿を見てニヤニヤして満足。
筆者も学ぶことを放棄していた日々だった。
翌年96年には、同期のE君が入社1年で退職。
面倒みのいいお姉さんだった D営業主任も同じころに退職してしまった。
そして筆者は、翌年96年1月に営業から内勤の手配に異動となった。
そこで、毎日最低3回はオフィス内で大声で怒られる日々を約1年過ごすことになる。
E手配課長との出会いであった。
(つづく)
Windows 95が発売した年、どぶ板営業にまい進していた。