正社員フリーター × 複業のBLOG

出世を目指すのとは違う、自由に働く努力 それが正社員フリーター × 複業(副業)

拙著『積極的副業人材』 http://amazon.co.jp/dp/B08BNJP42X/ 出世を目指すのとは違う、自由に働く努力。それが正社員フリーター × 複業。誰でも、もっともっと自由に働ける。外資 × バックオフィスで自由な正社員を20代から実践。40代後半になって、働き方、転職、複業(副業)のアウトプットを始めたこの頃。働き方の流行には注意喚起もする。 Twitter @ISehaooooo

【1社目】上司が連獅子の如く長い毛を振り乱す時!

さてこの先は、1996年1月29日の月曜日以降の話となる。
「まだまだ修業が足らないな」 と、前週の金曜日の筆者の何気ない一言が、全ての始まりだった。
当時の筆者には悲劇だったが、今の筆者には喜劇に映る。
お陰で今では、過剰演出の被害者ズラも必要ないし、ド演歌のような苦労話として語る必要もない。
現在の筆者には「喜劇」として昇華されていることは、たいへん喜ばしい。
当時を笑って振り返る余裕があるからだ。

来る日も来る日も、筆者はE課長に怒られることになった。
女性のヒステリックな怒鳴り声が、一日最低3回は小さなオフィスに響き渡った。
E課長の理不尽な筆者への怒りは、10ヶ月も続いた。
当時は、〇〇ハラスメントという言葉が一般的ではなかった。
筆者はパワハラという言葉を無論知らなかったし、その対処法も知る由もない。
就業規則は確かに存在していた。
C営業部長の机の引き出しの中に、そのコピーはあった。
但し、ハラスメントに関する規定など、勿論盛り込まれていなかったと推測する。
筆者を含む6名の新入社員に就業規則の説明はなく、閲覧も自由ではなかった。
筆者は全く気にしなかったが、同期には多少なりとも気にする人もいた。
今の世なら「ブラック企業」と、後ろ指をさされるのだろうか。

さて、E課長に理不尽に怒られても、筆者は「これが会社に勤めるということか」ぐらいの理解しかできなかった。
これから10年後に、筆者は大手企業のコンプライアンス部門に所属し、ハラスメント社内通報窓口の担当者となる。
キャリアいうものはたいへん面白いものだ。
この1社目での経験は、後にコンプライアンスを担当した時に大いに役に立った。

当時の筆者は、申し開きも言い訳も、口答えもしなかった。
めんどくさいので、「はい、はい」と大人しく聞いておいた。
誰かに相談することもなかったし、会社に話し合いをお願いすることもなかった。
これが事態を悪化させた。
忘れてはいけなかった。
筆者が勤めた最初の会社は、ベンチャーと称した中小企業。
E課長を含む役職者は、日陰を歩いてきた恨むつらみのサラリーマン(ウーマン)達だ。
明るいお日様の下を歩いてきた筆者は、彼ら彼女には格好のターゲット。
きちんと事実に基づいた反論をするべきだったが、筆者は怠った。
そのような知恵を当時は持ち合わせていなかったので、仕方があるまい。
筆者は「飯を喰っていくこと」を第一としていたので、社内の不穏な「圧」を気にしなかった。

社会人2年目の新人に、「気にしている場合ではない」と烙印を押された役職者の皆さん。
彼ら彼女らのご尊顔を思い出すと懐かしい。
30代半ば過ぎのE課長、C取締役営業部長は40ちょい手前、40代半ばの女性の課長と50代半ばの部長がいた。
当時の筆者は全くもって失礼な奴だったが(過去形で書かせてもらう)、彼ら彼女達のような仕事人生はご免だった。
筆者は、「キーン」と、漫画『Mr.スランプ』のアラレちゃんの如く疾走したかった。
残念なことに、オフィスの住所はペンギン村ではなかった。
風俗街とパチンコ店にほど近い、池袋西口のはずれの雑居ビルにあった。
ペンギン村のようにブタさんはホーホケキョとは鳴かず、カラスがカーと鳴いて繁華街のゴミを毎朝漁っていた。

E課長は、筆者のやり方が全て気にくわなかった。
「何も分からないのだと思います!」
というフレーズがお馴染みとなり、オフィスに響いた。
「じゃあ教えて下さい」と提案したところで、「私は人に教えるのが下手なんです!」と、ヒステリーな返答ばかりだった。

当時の筆者は、博多祇園山笠なら「のぼせもん」
喰っていくのに夢中で、周りを気にしている余裕はなかった。
一方、E課長は連獅子の如く、ぐるんぐるん長い毛を豪快に振るようになった。 
その毛が筆者の目に入ったり、顔に当ったり。
筆者には日増しに煩わしくなっていった。
(つづく)

 ぐるぐる ぐるぐる ぐるんぐるん。 

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