「会社が辞めさせてくれない。」
E課長は荒れた。
冬の玄界灘の如く荒れた。
E課長の心は連日大シケとなった。
シケた海には、一艘の小舟が頼りなく浮かんでいた。
大波に翻弄される木の葉のような小舟。
筆者が一生懸命漕いでいた。
E課長のご尊顔は三面怪人ダダ。
怒ると連獅子の鬘を被って、般若のお面を付けていた。
お囃子に乗って、舞台の幕が開く。
「イヤー!」の掛け声と共に、ポンポンポンと鼓が打たれる。
E課長はヒステリックな舞を見事に舞った。
筆者は長唄囃子連中の一員として、雛段に居並んで演奏していた。
小鼓の囃子方あたりの役割だったと思う。
それにしてもだ!
会社に辞表を提出して辞めることのできないとは!
一体全体どういうことだ!?
筆者は混乱した。
何度も己の耳を疑った。
会社は辞めたければ辞めればいい。
それだけだ!
辞表を提出すれば、民法上、最短2週間で退職できる。
酷いブラック企業で働いていても、自分の意志さえがあれば、企業と雇用契約を解約できる。
会社を辞めたところで、命に係わる問題でもない。
独裁国家から逃れるのなら、これは正に命懸け。
銃殺覚悟で国境を越える努力が必要だ。
「たかだか会社」を辞める話をしている。
「次に行くとこないから、辞められない。それが本当のところでしょう。」
と、筆者は考えた。
E課長に一種の甘えを感じた。
ボロクソ言っている会社に生活を依存するしかない現実。
責任感があるから、会社に残るのではない。
会社を良くしようと行動を取るのでもない。
ただ、会社と周囲に怒りまくっているだけ。
「私がいなければこの会社はダメなんです」的な勘違いもない。
この先、飯を喰っていくのが不安になっただけだ。
筆者はそう考えた。
E課長が大勢のつまらない人物になってしまった。
自力で無理なら誰かに連れ出してもらうしかない。
「私は結婚します!!!」
E課長は、仕事中に唐突な発言をするようになった。
結婚「したい」の願望ではなく、「する」と宣言していた。
一度ではなく、周りは幾度となくこの宣言を耳にした。
お年頃の女子社員の寿が続くと、 特に繰り返していた。
「え!!! お相手いるのですか?」と、非常に失礼ながら誰もが耳をそばだてた。
お相手を確かめようかと、社内が肝試しのようになった。
「谷川君、確かめてみてよ。」
「席が横なのだから、さり気なくお相手のこと聞いてみてよ」と、先輩女子社員によく揶揄われた。
「私に死ねと申されるのですか?」
筆者は真顔で返答し、白装束姿で秀吉に面会する伊達正宗の気分となった。
人生最後の瞬間。
「お相手リアルに存在するのですか?」と、三面怪人に訊いて果てたくない。
着物姿の高島礼子に膝枕されて終えるほうが、絶対いい!
比較対象にならないくらいいいぃぃぃぃぃ!
当時E課長はいいお年の頃。
お相手がエアーかリアルか、最後まで真相は闇の中だった。
何の脈絡もなく、幾度となく飛び出す「結婚します」宣言。
オフィスでの一服の清涼剤とはならず、オアシスにもならなかった。
E課長の精神安定剤であったことだけは、社内周知の事実だった。
暑い夏の昼下がり。
一直線に延びる舗装路。
じりじり焼けたアスファルト。
遠くに見える陽炎の水溜まり。
E課長は「逃げ水」を追いかけてた。
決して渇きを潤すことはできないのに、懸命に前に進んでいた。
E課長なりの国境を越えようと考えていたが、国境線は消えて見えなかった。
筆者は頭を上げ、熱く長い道の先に目をやった。
灼熱のアスファルトの先の逃げ水に、絶望的な働き方が映って見えた。
(つづく)