正社員フリーター × 複業のBLOG

出世を目指すのとは違う、自由に働く努力 それが正社員フリーター × 複業(副業)

拙著『積極的副業人材』 http://amazon.co.jp/dp/B08BNJP42X/ 出世を目指すのとは違う、自由に働く努力。それが正社員フリーター × 複業。誰でも、もっともっと自由に働ける。外資 × バックオフィスで自由な正社員を20代から実践。40代後半になって、働き方、転職、複業(副業)のアウトプットを始めたこの頃。働き方の流行には注意喚起もする。 Twitter @ISehaooooo

役を演じて大向うを唸らせたところで自分が望む人生でなければ意味はない

役者が役を演じてバッシングされるのだから、ほんと不機嫌な世の中だ。
すぐにお腹を下すストレスに弱い首相の設定が、現首相を揶揄していると問題視されてしまった。
役を演じた佐藤浩市さんにはいい迷惑だろう。
役者が好きに演じることがままならない状況には、ただただ同情するしかない。

人は何かしらの役を演じ、一生を終える生き物なのだろうか。
本人が望んでない役どころであっても、抑圧への耐久が強い人であれば、本心との調整弁を上手く操作して、見事に演じ切ることも可能なのだろう。
但し、演じている自分に全く後悔がないと思う人は、少数派に属すると思う。
よほどの人格者でない限り、心の底から湧き上がる熱いものに抵抗することは難しいはずだ。
演じた人生の後悔よりも、得たものが大きければ、それなりの納得感を得るのが普通の人だろう。

その代償として得るに値するものとしては、家族や愛といったものが思い浮かぶ。
「愛する家族を養う為に、自分を演じて会社で頑張ってきた。」
そう言い切る人の前では、一切文句はないのだけれども、少し哀れみを感じてしまう。

「お父さん、今までありがとう。」
それでも例えば、最愛の娘が結婚式で感謝の気持ちをスピーチしてくれたら、その苦労は報われるのだろう。
娘を嫁がせる父親は、たとえ大勢の面前であっても、どこまでもみっともなく泣く権利がある。
父親冥利に尽きる晴れの舞台に、別の人物を演じる必要はない。
なお余計なことだが、妻が「演じて」寄り添ってくれていても、娘のスピーチが大根役者であっても、もちろん大丈夫だ。
筆者は、娘から謝辞を頂戴する権利を有していないので、羨ましさゆえ余計なこととお断りして書かせて頂いた。
とにもかくにも、結婚式で泣いている父親は、当たり前の幸せを手に入れている瞬間なのだ。

会社で「演じる」ことに長けていれば、それは出世の近道になるのだろうけれども、「演じ過ぎている」人物は、酷くつまらないのもまた然り。
己の出世のみの動機付けで、過剰に演じる経営層の哀れな様は、さんざん間近で観察させて頂いた。
ご本人と組織が壊れて行く様は実に見事であった。

はたらけど はたらけど猶 わが暮らし 楽にならざり ぢつと手を見る

と歌ったのは、石川啄木。
演じても、演じても、なお思い通りにならない人は、自分の手は見ずに、その苛立ちが他者に向かうのであろうか。
役者が自分の思うところの役を演じ、それで飯を喰って何が悪いのか。

それにしても、自分を偽って演じ続けた人生で、得られる対価はどれほどの価値があるのだろうか。
演じて失った自分らしい表現や自由はいかばかりか。
大向うを唸らせたところで、「もっと自分勝手な人生を送ればよかった」と、後から嘆いたところでどうにもならない。

当たり前の幸せ、当たり前の生活、当たり前の生き方。
個人の価値を他者に押し付ける当たり前という単語。
大勢が認めるものが当たり前なら、今まで当たり前だと疑わなかったことが壊れてきている。
諸行無常。
新しい当たり前の価値は誰が造って、どこに向かっているのか。
窮屈な当たり前だけは御免こうむるのだ。

三文役者の筆者が演じたところで、世間様から顰蹙を買うだけだ。
このままでいこう。
いい季節になった。
不機嫌な世間様には背を向けて、目には青葉 山ホトトギス 初鰹としたいところだ。
海が眩しい。

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