秋の日は釣瓶落とし。
筆者の心も釣瓶落としとなってきた。
しかし、落ちた井に坐して天を見上げれば、とても心細くなった。
いよいよ転職しかないと心に決めても、最初の転職はやはり不安なものだ。
明るい星のない秋の夜空は寂しい。
賑やかな冬の星座が昇るのが、子供の頃は待ち遠しかった。
秋の日になっても、E課長の心は火炎のままだった。
何を言っても怒られる。
何をやっても怒られる。
やはり楽しく働けない。
それならばと、大人しく黙っていようと心に決めた。
沈黙は金なり。
デペッシュ・モードの”Enjoy the silence”を口ずさみながら出勤した。
しかし、この沈黙作戦も見事に撃沈した。
「私の言っていることに全く納得していないようですね!!!」
筆者の表情からそう決めつけられるようになった。
遠藤周作の『沈黙』のごとく、お奉行様は弾圧の手を緩めることはなかった。
相も変わらず、磔の刑に筆者は毎日処せられてしまった。
ただ黙っているのではやはり無理があるのか。
「うーむ。」
頭の悪いなりに考えてみた。
「あ、頷くのを忘れてた。」
同意のジェスチャーが足らなかったと思った。
頷くのにも芸は必要なようだが、筆者は訓練を受けていなかった。
新入社員研修でも頷く訓練はなかったぞ。
そういえば「うなずきトリオ」って昔いたなぐらいしか思い浮かばなかった。
非言語コミュニケーションの重要性を初めて知った。
「んなアホな!」
「谷川君の表情をみれば、E課長に納得していないのがバレバレよ 。」
同期からあっさりと指摘されてしまった。
「。。。。。」
筆者は沈黙した。
頷き作戦は、この後何社目かの転職先で成功する。
極めてめんどくさい社長の直属の部下になった時だ。
社長の性格も話もめんどくさいので、会議中ただただ頷くだけに徹した。
社長の発言を聞いていなかったので、頷くタイミングがズレて不自然になった。
会議が終わった後に出席者からよく指摘されたが、当の社長はご満悦だったので万事よしであった。
ただ首を機械的に上下に動かせばよかったので、非常に楽だった。
面従腹背にもならないので、ストレスも少なかった。
頷くこと、京都は詩仙堂の鹿威しの如し。
カコーン!
効果てきめんであった。
カコーン!
沈黙作戦が失敗した頃に、事件は起きた。
ついには、E課長ご自身の不手際も、筆者のせいにするようになった。
しかも筆者が休暇中に、社内で欠席裁判まで開かれてしまった。
筆者は見事に真っ逆さまに突き落とされた。
ポキーン!
同期4名は励ましてくれたが、さすがに心も折れてきた。
やはり転職しかないのかと思う一方、逃げてはいないかともう一方では考えた。
転職未経験者は、世間一般の転職に対するネガティブな印象に敏感になり過ぎて、転職活動というハードルも高く見積もり過ぎてしまう。
当時の筆者もそうであったので、逃げるのはよくないと心に御柱を建てることで精神の安定を図った。
次に、「楽しく働きたい」 は、転職理由としてはいささか単純過ぎて、不謹慎ではないかと考えた。
頭の中がぐるぐる渦を巻き、秋の夜空のアンドロメダ星雲のようになった。
当時は社会人2年目の甘ちゃんな若造で、答えが全く見つからなかった。
厳しい自己管理と自己鍛錬ができる人間には、「楽しく働きたい」は転職理由になると理解できるまでには、まだ時間が必要だった。
E課長は本当に筆者を追い出したいのだと、欠席裁判の後に節々感じるようになった。
筆者の心の御柱は、諏訪大社の御柱祭のクライマックスに向かっていた。
御柱が急斜面を滑り落ちる「木落し」のようだ。
ただし、筆者の御柱はポッキーぐらいのちっぽけで、斜面は幼稚園の砂山だった。
それでもE課長は「落ちろ、落ちろ」とあからさまに念じ、蹴落とそうと全力だった。
2人ともレベルの低いところで頑張り続けていた。
ある朝、A社長から筆者のデスクに珍しく内線があった。
一つ上の階にある社長の部屋まで、雑居ビルの屋外階段を重い足取りで上った。
屋外階段からは、カラスの鳴き声がいつもよく聞こえていた。
「あ~あ。社長からも怒られるのかなぁ」と、朝から暗い気持ちになった。
この社長の呼び出しは、結果として筆者の転職を後押しすることになる。
西池袋のカラス達との別れが近づいていた。
(つづく)
詩仙堂は何回か訪れたことがあるが、鹿威しの音色をYouTube で確認してしまった。