正社員フリーター × 複業のBLOG

出世を目指すのとは違う、自由に働く努力 それが正社員フリーター × 複業(副業)

拙著『積極的副業人材』 http://amazon.co.jp/dp/B08BNJP42X/ 出世を目指すのとは違う、自由に働く努力。それが正社員フリーター × 複業。誰でも、もっともっと自由に働ける。外資 × バックオフィスで自由な正社員を20代から実践。40代後半になって、働き方、転職、複業(副業)のアウトプットを始めたこの頃。働き方の流行には注意喚起もする。 Twitter @ISehaooooo

【1社目】さらば!そして氷河期に「正社員」で 拾ってくれてありがとう!

「君は軽いな。」
筆者は、A社長のこの捨て台詞のような一言をグッとこらえ、頭を深く下げた。
今に思えば、キャリアの樹海から抜け出す為の第一歩は、社長室を立ち去るところから始まった。

That's one small step for a man, one giant leap for mankind.

 西池袋外れの雑居ビルの5階から、今は随分と遠い所に来たものだ。
たった1歩で大きな飛躍はできなかったが、筆者なりに地味にやってきた。

ニール・アームストロング船長は、ハッチを開け、はしごを下りて月面に足を置いた。
筆者は社長室から屋外の階段を下りて、一つ下の階のドアを開いた。
「会社が君に酷いことをしていると社員は思っていて、たいへん困っているよ。」
B副社長に退職の挨拶したら、苦笑いをしてこう言われた。
そして、続けざまに鋭い目線をこちらに投げかけた。
「君は落ちこぼれだから、退職は仕方がないところだ。」
「ビジネスには向いていないよね。」
社会人経験2年も経たずに、もう落伍者呼ばわりなのか。
しかも、この1社しか経験していないのにな。
ここでも筆者はグッと感情をこらえて、頭を下げてB副社長の前を立ち去った。
後日、B副社長は筆者の退職の経緯を社員全員に説明した 。
しかしその説明は事実とは違うものだったと同期から教えてもらった。
経営者なのだから、嘘も方便は仕方があるまい。

新卒入社の筆者に、”こうなったら人生は終わる”という強烈なプレゼンテーションをしてくれたC営業部長や、”三面怪人ダダ別名般若面またの名を不死身の鬼美濃”のE課長にも、一通り形式的な挨拶をした。
筆者のことを本当に心配してくれた先輩お姉さん社員は、「頑張るんだよ!」と、眼にやや力を込めて送り出してくれた。

会社から池袋の駅に向かって最後の道のりを歩いていたら、信号で立ち止まった。
ふと反対側の歩道に目を移すと、A社長とC営業部長が歩いていた。
ちょうどランチの時間帯だった。
彼らは筆者には気がついていなかった。
二人で楽しそうに談笑しながら、信号が青になるのを待っていた。
何がそんなに楽しいのか??
何も楽しくない!
少なくとも筆者は全く楽しくない!!
筆者はそう思いながら、二人が歩き去るのを見送った。

こうして筆者は1996年11月末に、最初の会社を後にした。
さらば西池袋のカラス達よ。
早朝の散乱したゴミ箱と籠った街の臭気。
夏のアスファルトの焼けた道。
パチンコ屋を出入りするおっさん達の歩き方。
どれも忘れていない。
会社があった雑居ビルの屋上からの、あの低い眺めも懐かしい。
C営業部長が眼を細くして煙草を吹かし、その横で毎晩営業報告をさせられた屋上だ。
あの殺風景な思い出の屋上に、今一度昇ってみたいと思う。

退職して10年経った2006年、筆者はA社長宛に手紙を書いた。
10年の区切りとして、改めて在籍中の御礼と近状報告を兼ねて手紙を郵送した。
A社長がどのように手紙の内容を受け止めたのかは知る由もない。

月日はさらに流れ、創業者であるA社長はファンド運営会社に持ち株全株を売却した。
2014年のことであったが、筆者はだいぶ後になってこのニュースを知った。
今頃A社長は悠々自適な引退生活を楽しんでいるのではないだろうか。

この回にて筆者の1社目の話は終わりとなる。
1995年4月から1996年11月までの、1年8ヶ月の在籍期間だった。
とにもかくにも、筆者にとっては、就職氷河期の始まりに「正社員」で社会に出れたことはとても大きかった。
落ちこぼれを拾ってくれて、素直に感謝している。
電車のドアが開き、池袋駅のホームに足が置かれると、今で感謝の気持ちでいっぱいになる。
(1社目終わり)

 筆者はこの道を歩いて出社し、この道を歩いて退社した。思い出の街だ。

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