「君は軽いな。」
退職してから暫くの間、社長に言われた軽い嫌味の一言が頭に残っていた。
1996年12月1日に、筆者は無職になった。
今現在までで社会人になって最初で最後の失業期間に突入した。
その日は日曜日だったので、翌日12月2日の月曜日から転職活動をせねばならないと漠然と考えていた。
磯野家のカツオとワカメがサザエさんの子供ではなく、3人は姉弟姉妹の関係さえも知らないぐらい、初めての転職活動もよく分からなかった。
そのようなわけで、非常に漠然としか考えられなかった。
もっとも、やりたい事は何かと問われれば、「特別ない」としか答えようがなかった。
26歳の無職の筆者は、フリーターどころかニートさえも先取りしていた感があった。
そんなもの先取りしてどうするのだ!?
取りあえず人材会社に相談に行くことを考えそうなものだが、筆者はそうはしなかった。
暦を改めて確認すると、もう師走だし、キリよく年明けから活動を本格化させればいいと、さらに気持ちを先送りしていたのかも知れない。
ただ、「働かなくてはいけない」と、最低限の気持ちを持ち合わせていたのが救いだった。
転職のマニュアル本を読み、ハローワークに失業保険の申請に足を運んだ。
結果として、失業手当を頂戴する前に再就職となったが、再就職手当のようなものをその代わりに頂けた。
筆者は、「お金は稼ぐものではなく、貰うもの」といった感覚は好きではない。
失業手当も再就職手当もお金を貰う感覚なのだ。
再就職手当を振り込まれても、ちっとも嬉しくなかったことをよく覚えている。
話は少しそれるが、お金は貰うもの感覚の人は、権利の主張も強い人ような気がしている。
正社員になりたいと口では言っている派遣社員が、その一方で派遣社員の権利ばかり主張しているのに接した気分と似ている。
お金は貰うもの感覚の人は、年々増加傾向だと思っている。
『頂くものは夏でも小袖』なのだろうか。
日本が今ではすっかり貧しくなった証拠だろうが、貧しいと認めたくない人達が独特のグルーブ感を作り出し、その攻撃性を増している。
概ね12月の1ヶ月はのんびりを決め込んだ訳だが、世の中は真冬の曇天の空のような冷え冷えした不景気だった。
氷河期の走りに運よく就職できたのに、1年8か月でコチコチの氷河期に戻って無職となってしまった。
1996年は住専国会の年。
経営破綻した住宅金融専門会社の不良債権処理に、6,000億円以上の税金が使われることになった。
この年の本のベストセラーは春山茂雄氏の『脳内革命』だった。
脳髄からホルモンを垂れ流がさなければやってられない世の中だったのだろう。
脱法ハーブを吸うよりもマシだった。
それでも、当時は今より階級社会にはなっていなかったので、人々には妙なテンションが身に付いていなかったと思う。
筆者が26歳と若かった事もあるのだろうが、暗黒の闇の部分はずっと少なかった世の中だったと感じている。
こうして緩んだ転職活動というか、失業したので再就職活動が始まった。
再就職活動のやり方も自分の売り方も分からなかったが、就職活動でお世話になった『週刊B-ing』を毎週買うことにまずは決めた。
そうか!筆者の1社目、2社目は『週刊B-ing』の求人掲載で見つけた企業なのだ。
内定辞退予測で話題のリクルートさん、個人的にはありがとうと御礼申し上げます。
再就職活動よりも筆者には別の関心事があった。
夜空のヘール・ボップ彗星だった。
翌年1997年春には、見事な尾を靡かせた明るい彗星になると予想されていたので、待ち遠しかった。
『週刊B-ing』よりも、誠文堂新光社の『天文ガイド』の発売日が気になっていた始末だ。
見事にお気楽な無職だった。
平日の昼間はやることもないし、お金もないので、あてもなく散歩をした日もあった。
ある快晴の日は、新宿近くの公園で、鳩に餌やりをしているオジさんを眺めていた。
失業したのでゆっくりと鳩の模様を眺められるなあとも思った。
『セールスガラス』を唄っているより遥かにマシだと、年の瀬に一人ベンチでふっと微笑んだのが懐かしい。
師走にダメ人間のようにダラダラとしていたが、年が明けると、筆者の再就職活動は予想外に早く終わりを迎えることになった。
(つづく)