米系日本法人が営業管理を募集し、書類を応募したところ面接に呼ばれた。
1997年2月中旬のことで、筆者が無職となってもう2ヶ月半の時が過ぎていた。
これまでその企業の業種に全く触れてこなかった。
理由は簡単で、当時の筆者は業種に大きな拘りを持っていなかったからだ。
漠然と、飲食、パチンコ、不動産以外なら概ねOKと考えていた。
転職活動の求人情報を『週刊B-ing』のみに頼っていたが、その飲食、パチンコ、不動産が掲載企業の多くを占めていた。
また、1社目で経験した格安旅行業界は薄給と理解していたので、こちらもパスした。
2社目も同じ業界になると、他業界への移動が厳しくなるとの考えもあった。
経験者採用とは違い、第二新卒での再就職を狙っていたので、業界を自由に選ぶ権利を有効に使いたかった。
『週刊B-ing』の掲載の中では「社長が失業時代はパチプロで生計を立てていた...」と紹介していた確か不動産業の会社が最高傑作だった。
無職で暇だったので、『週刊B-ing』は発売当日に全ページの全求人に目を通した。
なぜ人材会社に面談に行かなかったのかと今になって思うのだが、それが当時のアホな筆者なりに考えた末の再就職活動のやり方だった。
まず、社会人経験僅か1年8ヶ月の人間を採用してくれる企業は、人材会社のクライアントにはならず、求人広告で安く上げたいと想像した。
また、高スペックの第二新卒は人材会社に足を運ぶだろうから、筆者は歓迎されないだろうと考えた。
就職活動を『週刊B-ing』だけで終えたので、今回もこの求人誌をあてにしようと決めた。
今に振り返ると、これも弱者の戦い方だった。
ただ単純に、当時の筆者は人材会社の使い方を十分に理解をしていなかっただけのような気もするが。
余談になるが、当時ちょっと世間を騒がせた求人広告があった。
部長の肩書きなら300万円、課長なら200万円、係長なら100万円の支度金を用意すれば、その役職で採用しますというものだった。
役職のために支度金を払って入社したが、その企業の事業に実態はなく、出社してもやることもなく、給料も払われなかった。
入社した人物からの訴えでこの詐欺まがいが発覚したわけだが、サラリーマンの悲哀をひどく感じさせる事件だった。
役職は記号と変わらないと本田宗一郎さんが確か仰せだったが、会社員にとって役職名は命の次に大切なものなのだろうか。
いい歳した大人が騙されてしまうのだから、サラリーマンの安っぽいプライドをうまく擽ぐる事件だった。
97年頃なら、当時の40代には一社専任が当たり前の感覚だったろうから、社外でのキャリア構築の概念は無きに等しかったと察しがつく。
リストラの憂き目に遭ってからでは遅すぎた。
「私は部長職ができます。」
「私はなんでもやります。」
90年代後半の中高年求職者はこのレベルがそれなりの人数いた。
後に懇意になった人材会社の人物がそう教えてくれた。
詐欺まがいの馬鹿げた求人に支度金を払う大人になってはいけない。
当時無職の筆者でも、最低限のことは理解できていた。
さて、その米系日本法人は、工場で使用される圧力を計測する機器を販売していた。
もちろん筆者は、工業用の計測機器について何も知らなかった。
企業の売り物は全く気にせず、営業管理職で応募を決めたのみであった。
ただし、営業管理という職種は厳密には未経験で、営業とそれに近しいバックオフィスを経験していたので、面接での説明には工夫が必要だった。
「私はなんでもやります」では面接は全く通用しない。
名刺ほどの大きさの求人広告しかなかったので、限られた情報の中で必死に企業研究をした。
ちょうど初めてパソコンを買ったので、ダイアルアップ接続で米国本社のホームページを探して閲覧もした。
お金が無かったので、インターネットの接続料金が気になって仕方がなかった。
時間をかけて営業管理の志望動機をなんとか考え、それをノートに纏めた。
名刺大の求人広告には、『じっくり育てます』とも書いてあった。
当時一大ブームとなったのが、バンダイの「たまごっち」だった。
97年お正月の初売りでも、「たまごっち」目当ての長蛇の列がニュースとなった。
「たまごっち」のように手間暇かけて育成してくれるのかなと、心の片隅に甘い考えもありつつ、筆者は面接に向かった。
面接会場に指定された東京オフィスは新宿駅から少し離れていて、自転車を漕ぐのがつらそうな長い坂の途中にあった。
面接の冒頭、1週間ちょっとで100名を超える応募があったと説明された。
甘く淡い期待がいっぺんに吹き飛んでしまった。
(つづく)