1997年3月10日、筆者の2社目がスタートした。
日本法人は設立6年目、筆者を含めて社員5名とアルバイト1名の本当に小さな所帯だった。
オフィスの小さな応接室兼会議室で社員に挨拶をした。
メンバーは以下の皆さんだった。
60歳を超えた初老の溝田社長。
ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんに顔が似ていた。
大手商社に長年在籍し、海外駐在が長かったようだ。
この外資の日本法人の代表取締役になったのは2年前だった。
筆者より10歳年上、36歳の営業課長の新谷さん。
この日本法人が営業を始めてすぐに参加している古参だった。
米国本社にも研修で半年在籍していた経験があった。
2児の父親で、ファミリーマン的な雰囲気を醸し出していた。
30代後半の小柄な女性、笹山さん。
総務や経理を担当していた。
筆者の入社の世話もしてくれた。
旦那さんが7歳近く年下のアメリカ人で、横田基地に勤務していた。
お住まいも横田基地の中だった。
筆者の入社初日には不在だったヨコ太さん。
ご両親と兄家族で香港旅行中とのことだった。
入社して2年で、筆者より2歳年上の営業担当だった。
相撲取りを早々に引退してちゃんこ鍋屋の店員をしてそうな雰囲気の人だった。
食と睡眠に全力投球をしていた。
筆者より1歳年下のヒカゲさん。
入社4年目で、技術を担当だった。
悪名高い工業高校出身だったが、心優しい人だった。
ヒカゲさんとは長くお付き合いをすることになるのだが、14年後に彼の転職の世話をして楽しくない思いをさせられた。
バイクと映画と忌野清志郎が好きな人だった。
そしてアルバイトの60歳半ばのママゴン。
午後の4時間だけ出社して、雑用をしていた。
若いころはSONYにお勤めで、盛田昭夫さんに字が綺麗だと誉められたそうだ。
ひとり娘もSONYに就職し、その婿さんもSONYの人だった。
お孫さんの成長が何よりも楽しみなご様子だった。
入社初日から非常に牧歌的な雰囲気だった。
売り上げにガツガツした雰囲気も感じられなかった。
ヒカゲさんはラジオをONにして、技術室で鼻歌を歌いながら不具合品の検査をしていた。
新谷さんは外回りの営業で毎日外出していたが、香港から帰ってきたヨコ太さんは社内でずっと座っていた。
入社してから分かったのだが、会社には就業規則がなかった。
表紙に他社名が記載された就業規則のハードコピーが新谷さんのデスクの引き出しにあった。
社内はそれを参考にしていた。
溝田社長は労務管理を含め総務関連には全くの無頓着だった。
アメリカ本社とのやり取りは、営業と技術的なトピックだけに徹していた。
福利厚生もなく、退職金もない会社だった。
健康保険証だけは入社して間もなく貰えたので、当時の筆者にはそれでよかった。
仕事が始まるのでパラダイス気分だった。
今のご時世、就業規則がないと従業員10人以下でもブラックとすぐに指を差されそうだが、20年も前の当時は緩かった。
ちょっとしたことで目くじらを立てるような人が今よりもずっと少なかったと振り返るのだが、それは筆者の気のせいなのだろうか。
スキルもない筆者は、採用してくれただけで会社に感謝していたので、権利のようなものを主張するつもりは毛頭なかった。
今はとにかく権利を主張する人が多いが、自分が会社に何が貢献できるのかを問うほうが先だろう。
例えば、派遣の人が「是非、正社員になりたい」と口では言うが、やっていることは派遣社員としての権利の主張ばかりだと、筆者はげんなりする。
正社員になりたければ、派遣社員の権利など真っ先に捨て去る必要があるのではないか。
筆者はそう思うのだが、その考え方すらパワハラと騒ぐ人がいるのだから、面倒くさい世の中なのだ。
当時の筆者は、権利の主張どころではなく、ただ恐怖心だけを身に纏っていた。
第二新卒で入社したこの2社目は、短期間で退職するわけにはいかなかった。
しかし入社して1週間経っても、研修ノ-トはほぼ真っ白だった。
(つづく)