刀鍛冶は、“この人のレベルになったら審査する人がいない”と無鑑査のお墨付きを与えられる名人がいる。
無鑑査となると審査や鑑査なしで展覧会などの出品が可能となるそうだ。
中途半端に承認欲求が強い人だったら、その孤高感が恐ろしくなって無鑑査の認定など放棄してしまうに違いない。
いい歳こいても周りからチヤホヤされたがるのが承認欲求ピープルなわけなので、勝手にしかも表面的な孤独に焦っているだけなのだ。
“私はただの洋服屋です”とチャラっと言ってくれちゃう山本耀司さんのように、“私はただのサラリーマンです”とオフィスで言ったところで格好がつくものであろうか。
承認欲求の強い中高年になると、“私はただのサラリーマンです”とは口が裂けても言えないだろう。
定年延長や廃止は、ツバメの雛のように赤い大きな口を開いてピーピー鳴いて煩い中高年に20代や30代がせっせと餌を運ぶようなものなのだろうか。
運ばれた餌に文句を言わず丸のみしてくれればせめてもの救いだろうけれども、おっさんおばさん達はそうはいかない。
偉そうに我が社のルールに従って餌を運べといちいち指示を出したり、そんな毛虫は喰えないとグルメ気取りだったり、オレが若いころはもっと遠くまで餌を探しにいったものだと、心の贅肉だらけの中高年の雛はやかましいに違いない。
それならば、“私はただのサラリーマンです”と逆に言い切ってしまう価値はある。
能力やスキルで無鑑査を目指すのではなく、人格で無鑑査を目指したほうが歳を重ねて楽に生きられる。
ジョブ型であっても人柄は重要視されることには変わりない。
まずは、自分より年下の人間に頭を下げて分からないことは教えてもらう事から始めてみる。
筆者は小学生の道徳の時間で、福沢諭吉が自分より年下から学んだエピソードを先生から教えてもらったことを覚えている。
大人になってからも大切なことは、たいてい小学校で教えてくれるのだ。
「私の周りでは知りませんね」と、カッコつけたところで思いっきり不戦敗になっている周りの中高年を尻目に、どんどん頭を下げて年下から学べばいい。
現役の寿命を延ばすには、年下から学び続けることだ。
おっさんおばさんのプライドなど福沢諭吉の紙幣の価値は勿論なく、1円の価値すらもない。
マクドナルドのスマイルなら0円でも価値はある。
1円の価値すらない、逆無鑑査のおっさんおばさん。
絶対になってはいけません。