“反省だけなら、サルでもできる。”
1992年の大鵬薬品工業のCM。
そのCMを鼻で笑っていた当時の20代は、今では50代だ。
ふと気がつけば、反省すらできない中年になっていると気がつくのかもしれない。
反省のポーズ(ただのポーズで心からのものでなくても)を一度取ってしまったら、自分の人生が他人に全て否定されてしまうように感じ、責められるのではないかと心配して背筋が凍りつき、自分の人生を今更ながらに直視できない中高年は確かに存在している。
他人に反省の強要はしてはいけないが、自ら反省をして、それを糧に乗り越えていかなければならない時もある。
職場で部下や同僚に反省を一生懸命に求める人間は、自らが批判の的にならないように注意を払っている場合もあるので、それはそれで小賢しいものだ。
人は歳を重ねると反省はできなくなる代わりに、自慢話、昔話、説教の3つは達者になる。
いい歳になって、その3つでマウントを取ってくる人物に出会うと、“この人は今までずっと日陰の人生を送ってきたのだろうな”と、可哀そうな気持ちにしか思わない時もある。
時より30代半ばの若さで、自慢話、昔話、説教の3セットのマウント最終形態フリーザ様みたいな人にも出くわすが、フリーザ様は大企業よりも中小ベンチャーに多く生息しているように感じている。
自慢話、昔話、説教に「カッコよく生きようぜ」みたなスパイスを降りかけてくる中年は、それはもう、バナナの皮で滑って転ぶといった一連の動作を自ら演出しているに過ぎない。
絶対に止めておいたほうがいい。
人事考課シートにある無難な個人目標を、無難になぞる人が増えていくのも40代。
なぞったその先は、行き止まりか断崖絶壁になっている、“お前はもう死んでいる”かも状態。
意味なくカッコをつけて、取り繕ったような個人目標をしゃあしゃあと提出する中年は、本当に不自由だ。
歳を重ねて気楽に生きたかったら、いかにカッコ悪く生きるかだ。
カッコ悪く生きるとは、他人の為に纏めた自分のヘッダーがないような人生だ。
その過程でサルにはできない内省があるのだよ。