SNSとは違い、七夕の短冊に嫌味や文句や謝罪要求を書く人はいないだろう。
お星様には願い事をするものと人は理解している。
夕陽に向かって「バカヤロー」と叫ぶ人はいるけれども。
筆者は自由にしている(と、他人からよく指摘をされる)人間なのだが、嫌味や文句やその果てには謝罪まで求める輩にそれなりに出くわしてきた。
筆者の自由は他人には迷惑をかけていない。
この時ばかりは、昼間から道端に寝そべっている猫が羨ましくなる。
誰も猫には文句を言わない。
たかだか自由に働く努力をしている筆者ですら誰かの不満の対象になってしまうのだから、有名人はたいへんなんだろうと思う。
なんでもかんでも謝罪を要求するこの風潮は、ヒステリー集団の輪が確実に広がっている証拠なのだろうか。
その集団の一翼を担っていると筆者が睨んでいるのは、誰が決めたのかも分からないルールにずっと従い、“そんなの当たり前だろ”と言わんばかりに、今度はそのルールを他人に強要する皆さんだ。
自分が長年信じてきたものに裏切られているような気分でもあり、それでもなお頑なに信じようとしている人たちだ。
お星様は全ての人の上に公平に輝いているのに、その人たちは空を見上げる勇気も余裕もないというか、曇りや雨の日にばかりに顎を突き出しているような人たちだ。
筆者には執着をするほど大した過去がない人間なので、何歳になっても気が楽なのだ。
ある意味いい加減な人間なので、晴れの日以外に星を探そうとはしないのだ。
他人の成功ストーリーに、“現実離れしている”“この人は環境が恵まれているから”“この人には特別な才能があるから”と、身勝手で狭い自分の共感を尺度にモノ言う人たちこそ、夜空を眺めるべきだ。
ずっと遠い昔から輝いているお星様を見つければ、人間の一生などゴミ屑のようなものであるように思えて、いろいろなことが馬鹿馬鹿しくなるはずだ。
年を重ねても自分がちっぽけな馬鹿だと理解できれば、他人の成功話に余計な負のエネルギーを使う事もないし、自分の可能性をいちいち潰すこともない。
幸せな人が自分の周りにたくさん集まることが筆者のお星様への願いだ。
不幸気取りの人に自分の気が囚われて、幸せなことを見逃したくない。
嬉しいことに、願い事は自由でいつでも無料。
ただし、それを叶えるのは自分自身であり、とても骨が折れるのだ。