会社はいつでも辞められる。
「軽いな」と、1社目の社長に退職届を提出したときに嫌味を言われたが、退職に軽いも重いもないのである。
軽くなかったら、今ごろ私は低所得者層で喘いでいただろう。
「また転職するの?」とジョブ・ホッパーと蔑む人には分からないかもしれないが、転職をできる自分というものは一種の保険のようなものだ。
必要以上に会社に依存をしていない自分が確認できるプロセスが転職だ。
会社で一生懸命に働いて獲得できる自由もあれば、転職をして得られる自由もある。
退職を重いものと考える人の中には、会社を辞めることができないほど会社に依存をしている人もいるのだろう。
働いて自由を獲得したことがない人に、この傾向が強いように思う。
会社がなんでも与えてくれると勘違いをすると、仕事人生というか人生そのものがややこしくなる。
たいそうな権利の主張は、寄生している会社があってこそで、会社という宿主が不健康になると、一緒に共倒れ、もしくは宿主から切られてしまうことを忘れないことだ。
私自身は社内政治も嫌いだし、自分の権利の主張が弱いようなのだが、だからといって損をしてきたとは思っていない。
権利の主張が強い人物は、自分が真面目に働いていると勘違いをしているのかもしれないが、その成果はほどほどで、「もう騙されないぞ」と会社や人や社会にまでに疑心暗鬼になっている人が多いように思う。
40歳を超えてから「〇〇を主張します」なんてTwitterにつぶやかない人生のほうがよっぽど楽しいだろうし。
寄生先が国であっても同じことだろう。
オワコン気味の国に夢と希望をとはしゃいだ東京五輪はコロナ禍と老害に打ちのめされ、おめでたいはずの皇族関係者のご結婚お相手も「あいつ」呼ばわりされる人物だった。
あとは国際的にネームバリューがある人物の国葬しかないという悲しい現実なのだが、海外から歴史となる悲報の前に打ち消されてしまいそうだ。
国という大きな宿主の下り坂はどこまで続くのだろうか?
国を捨てるのは難しいけれども、会社はいつでも辞められる。
会社ごときを辞められないのは、自分に問題があるとまずは考えたほうがいい。