筆者の1996年に頑張って話を戻したい。
営業から予約手配に初めて異動した年の1月にだ。
会社で自分の強みというか、得意な分野をようやく理解できた年にだ。
新卒入社した前年1995年4月からの9ヶ月間は、たいへん心細かった。
この会社で営業の仕事を学んだところで、飯を喰っていけるか、甚だ疑問だった。
1週間で名刺を100枚配ることが目的の仕事に、何の意味があるのか。
異動しバックオフィスの仕事を経験し、短い期間だったけれども、薄い光だったけれども、自分の将来に期待できるようになった。
筆者は当時25歳から26歳にかけての年齢。
20代も半ばを過ぎて、仕事の適性を十分理解していないようでは、たいへん心許ない。
社会人5年目、大卒なら27歳前後にはキャリアの方向性を定めている必要があろう。
20年以上前の当時のキャリア事情では、今現在以上に若い年齢で、キャリアの行く末が決められていた。
労働市場に現在のような流動性も多様性もなかった。
また、社会全体もユニークなキャリアに寛容ではなかった。
たったの20代半ばぐらいで、その人物の定年までのキャリアのなり様を、他人は勝手に見通していた。
そのくらい自由の振れ幅が少ない、つまらない仕事社会だった。
35歳転職限界説は、今ではもう昔の話だ。
筆者が新人の頃は、この限界説は確かに存在した。
今の労働市場はたいへん有難い。
筆者は40代が一番転職回数が多い。
この世は諸行無常。
定説や格言など信じるに足りぬ。
格差の上下の広がりを嘆くより、自由で広がった社会の空間を、縦横無尽に好きに動きたい。
やりたい仕事や自分の得意分野に気付くのは、20年以上前でも現在でも、早い年齢のほうがいいのには変わりない。
鮨職人や噺家のような、職人や芸人と呼ばれる職業を目指すのであれば、特に早い年齢のほうが有利だろう。
筆者は26歳でようやく方向性が見えた。
26年間、何も考えて生きてこなかったのがバレバレて、とても恥ずかしいけれども。
一方で、物事にはコインのように表裏、光のように明と暗が必ず存在する。
自分の得意技が分かったが、そのお蔭で酷い目にも遭ってしまった.....のである。
20代が調子こいた結果だった。
この過酷な話は先に譲る。
1996年1月、勝手に社内に所信表明演説をし、啖呵を切って手配業務に勤しんだ。
筆者にとってその業務は、見事に簡単にできた。
格安旅行業界は、薄利多売のビジネス。
量をこなす根性と、自分の時間を大量に捨てる覚悟があれば、スキルなどたいして必要がない。
筆者は真逆だった。
根性が全く無く、自分の時間を大切にしたいので、時間を捨てる覚悟も全くなかった。
けれども、筆者にはピカ一の業務センスがあった。
異動の最初の3日で、頭のてっぺんからつま先まで、筆者には新たな仕事がとても簡単であることを理解した。
お蔭様というか、4日目の木曜日から、すっかり仕事を舐め始めた。
我ながら見下げた根性である。
野球で例えるなら、新人ルーキーがプロのマウンドに初登板。
初回、2回、3回とプロの打者と対戦して、「大したことないな」と思うようなものか。
巨人の江川卓氏のプロ初登板のエピソードを思い出す。
筆者は、江川氏のような怪物でも何でもないが、気分だけは「超大物怪物ルーキー」になっていた。
つい先日まで「藁をも掴む心境」だったのに。
江川氏は初登板で、結局ホームランを3本を浴び敗戦投手となった。
試合の序盤は舐めてかかっていたが、回を重ねるごとにプロの世界は凄いことを理解した。
筆者の異動先での顛末も、敗戦投手になる。
しかし、バックオフィスの業務系から見た会社は、ちっとも凄い世界には思えなかった。
当時の筆者は心の底からそう思った。
笑えるが。
「こんな仕事でお金がもらえるだから、社会人は素晴らしい」と、世を舐めた社会人2年生がいた。
(つづく)
こちらは本物の怪物。筆者は態度だけは怪物だった。