年末のこと。
所用の為、とある施設に出向き、螺旋階段を昇った。
螺旋階段を昇り、着席した時、ふと思い出した。
「人脈スパイラル・モデル」を紹介した本があったな、と。
だいぶ昔に読んだ記憶を取り戻した。
師走の時間の緩いひと時だった。
付き合う人脈を広げるというより、戦略的にどんどん上げていこうという本の内容だった。
お付き合いする方々の社会的地位が上り、元大臣のパーティーの司会まで指名されるようになった。
著者ご自身のそんな成功体験が描かれていた。
ある一定の時点から、ある一定の時点までで、著者の人脈は2回転しながら上昇していると紹介していた。
拝読した当時、ちょっと笑ってしまったことを思い出した。
この著者の昔からの知り合いで、とんと著者と音沙汰が無くなった人物が読んだら.......と想像すると可笑しくなった。
著者から音沙汰がないということは、自分は螺旋階段で通り越された存在なのか。
なんて思ってしまった著者の知り合いもいたのではないか。
一方の著者は、ドヤ顔で書いたのだろうか。
こんな想像したら意地が悪いかな。
上る、昇る、登る。
上昇志向が中毒的に蔓延しているこの世の中。
昨年亡くなった栗城史多さんは、無謀と貶す人が多い登山家だった。
山は登ったら、当然ながら安全に下りなければならない。
頂まで到達しても、途中で引き返しても、下りるという作業が発生する。
登山を完了するプロセスには下山は必須だ。
筆者は趣味の範囲で山に登るが、下りのほうが苦労している。
筆者には体幹がない。
海外の難しい山で安全な下山を願う人がいるなら、お金を使ってヘリに乗って麓に降りてもいいと思う。
生きていることが最も大切だ。
栗城さんはどこかで「下りる」という単語を失ったのだろう。
登山という冒険の共有というより、栗城さんの共有を目指していたのかもしれない。
映画マトリックス リローデッドで、増殖能力を身につけたエージェント・スミスを夢見ていたのか?
それとも、スポットライト症候群だっだのか?
舞台の上で光を浴びたい。
もっと高いところに昇って、もっと強い光を多く浴びたい。
下りれない、降りれない。
「下りていいのだよ。」
そう一言教えてあげた人は、彼が存命中一定数は存在していたと思うのだが。
「他人の後押し」で降りれなかったのか?
押された先の恐ろしい光景を彼は見たのであろうか。
高いところに昇り、切なく消えた人もいた。
シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた
シャボン玉の唄の歌詞ような人生だった。
そう告別式で弔われた人もいた。
シャンソンの女王と呼ばれた越地吹雪さんだった。
スターは儚く消えてしまう。
所用を終えた後、筆者は4階から1階まで螺旋階段を歩いた。
凡人は自分の足を使い、安全に降りなければならない。
上り方、昇り方、登り方よりも、降り方、下り方を学ばなければならない。
凡人は落ちてはいけない。
決して落とされてもいけない。
「馬鹿と煙は高いところへ上る」と、自らを戒めることが時には必要だ。