「そんなの常識だろ」と、相手の話をバッサリ切ったり、「常識的に言って~」と職場で会話を繋げたりする人は、ご自身のことを“常識人”だと信じているのだろうか。
常識、常識、常識とやかましい人には、言葉を端折らずに“我が社の常識”と、正確に口に出してもらいたいものだと思う。
世の中の常識ではなく、たった1社そこだけで通用する常識と認識してもらいたい。
三つ子の魂百までではないが、新卒1社目の社員教育による常識の刷り込みは、何歳になっても消すことができないようで、それがその人の“常識”の基準として長年染みついてしまっている場合が観察できる。
新卒1社目に入社する企業はとても大切と言われる根拠はここにあるのだろうか。
平成入社であっても、刷り込みを与えてくれたのは昭和の諸先輩たちなので、昭和の常識はなかなか消えてはくれないものだ。
令和の世だから昭和の働き方の常識を変えてやるなんて意気込まず、自分の常識にフィットした場所を選べばいい。
常に的を得た場所に身を置くことのほうが大切だ。
筆者の場合は、新卒1社目の全否定からキャリアはスタートしたわけだが、結果としてそれが正解だった。
たった1社の常識をこの世の中の常識のごとく仰せの皆さんに楯を突き転職をし、転職先でまた世の中の常識を高らかに謳う輩からの仕打ち喰い、そして手向かう。
穏やかならぬキャリアのようではあるが、当事者である筆者にはそれなりに楽しいのだ。
「我が社はこうだ」と、試行錯誤をすることもできない、無謬性の世界に生きるいい歳したおっさん、おばさん達の姿がひどくおかしいのだ。
20代30代で“常識”の激流に抵抗して、一生懸命に自分のペダルを漕いでも辛くなってしまうだろう。
誰が決めたか分からない常識とはもの凄く厄介なもので、ちょっと頭が利く人間なら、どこまでも逆らったところでその常識の主が最後まで登場することがないことを理解できるので、いっそ皆と一緒に気持ちよく流されてしまえばいいと気がつくものだ。
それは大人への階段というより、大人の諦めみたいな川下りのようなものなのか。
常識の激流に押し流された先には、“民度”という緩やかな大河の流れに身を委ねることになるのだろうか。
メイン・ストリームにいる安心感と民度のプライドが擽られ、心地よい流れだろう。
だが、その代償として、あいにく大勢の中の一人になってしまう。
大きな河を鉄橋を渡りながら、そんなことを考えてしまった。