最近電車に乗ると目につくのが、リカレント教育のBBTの広告。
かの大前研一さんが関係している社会人教育の企業らしい。
あいにく筆者は大前さんの著書は拝読したことはない。
ただし、大前さんの言われる『人間が変わる方法は3つしかない。1つ目は時間配分を変える。2つ目は住む場所を変える。3つ目は付き合う人を変える』というのは本当だと思う。
さらに、『決意を新たにするは意味がない』も筆者は大きく頷く。
広告が眼に入るが、終身雇用制、学歴社会、副業禁止の終焉とはな。
これは10年前の広告ではない。
令和の世になっても、この3つの終焉に「そうだったのか!」と、はっとする人はいるのであろうか。
終身雇用制は、10年前どころか90年代後半から「終わった」と言われ続けている。
まるでお化けのように恐る恐ると出てくれることを、今もな人はお期待していのであろうか。
「人って変わらないな」と、20年以上もそのような人を傍目に見ているような気がする。
学歴社会は終焉というか、学歴は社会に出るには今も昔も有利この上ない。
ただし、学歴頼みは30歳ぐらいまで。
学歴でずっと社会で飯を喰っていくのには、今も昔も変わりなく頼りないものなのだ。
変わったのは環境の変化で、窓際族と呼ばれる人種が絶滅してきた。
受験からの就活ピークのキャリア人生を見るにつけ、学歴社会というバリアを信じてきたであろう大企業の中高年サラリーマンの早期退職は居た堪れないものはある。
副業禁止の終焉といっても、企業に黙ってやればその内容はともかく、副業はずっと昔からできたはずだ。
副業の禁止の就業規則は、ある意味では社員に平等を与えたルールではあった。
これからは、個人の才能や能力を制限をする歪んだ平等ルールの撤廃は歓迎されるはずだ。
古新聞の活字のような3つのキーワードではあるが、今現在でもなおも活きた字なのだ。
人は与えられた環境の中で自分が信じているものは変わらないことを強く望む生き物なので、自ら変わろうと本気で挑まない。
そして、この「本気」という修飾語も筆者は聞き飽きている。
「本気」「本気」と発する人間が多すぎるように思う。
その多くは、この本気の二文字に甘えているというか、自分に酔っているだけのポーズのようなものだ。
大前さんの『決意を新たにするは意味がない』は、まさにその通りだと思う。
例えば、挑戦とは本気でなければ成しえないものであり、わざわざ本気を修飾する必要もないはずだろう。
終身雇用制、学歴社会、副業禁止が終われば、どう考えても個人に与えられる選択の自由の裁量は大きくなる。
例えば、「隣の芝は青く見える」人はブレまくるし、草木も生えない砂漠の上を歩く努力はできないけれども、ブレまくって「所変われば品変わる」的なハマり方をする人が出てきているから面白い。
個人の選択の自由が増えたおかげだと思う。
後悔をしない生き方とは、とてつもなく後悔をしてからできる場合が多い。
王道や本流うんぬんと煩い日本社会の中で、そこから逸脱して、もしくは逸脱させられた人を個性があると他人は呼ぶ。
個性などたいして要求されていない社会で、個性は活かすよりも自分自身を救うものだ。
そして、「本気」「本気」と音量を増幅している人は、実は個性というセーフティーネットを持たない守旧派なのではあるまいか。
そんなこんなで「本気」の裏側を考えてしまう、今日この頃だ。