人を馬鹿にするより人から馬鹿にされてきた人間なので、成長をすることができた。
人を待たせるより人を待っている時間のほうが長い人生なので、人から信頼をされてきた。
50歳を超えてなお、人に馬鹿にされたいし、人を待っていたいのだ。
無駄なプライドの贅肉を蓄えた中高年は、到底理解できないことだろう。
人に軽く見られて油断されたほうが勝ちやすいのだ。
弱者が生き延びていく術だと思う。
考える頭が足らない人間の私にとっては、ダンゴムシが敵から身を守るために、全身をクルっと丸めるのと同じくらいの即効性があると考えている。
オーギュスト・ロダンの考える人のように思索にふけたところで、高性能の脳みそが備わっていなければ、それは実りがない、つまらないポーズで終わってしまう。
猛暑の日に見上げたブロンズ像は、ガマン大会の参加者に見えてしまった。
40代50代の無駄なプライドの贅肉は、厚かましさや図々しさの重しを加えて、ただの恥知らずを造り上げてしまう。
50代に突入して何が一番悲しいかといえば、10代20代の頃に一緒に音楽雑誌を読んでいた奴らが、当時は反権力とかイキっていたくせに、今ではすっかりお国からおこぼれを頂戴することを調べていることなんだよな。
こちらとしては、何歳になっても青臭くやりたいのだ。
なぜならば、私の人生のピークはこれからだと真剣に信じ込んでいる。
50歳になってから、「自分の人生のピークはこれからです」と口にすると、「それはすごいですね!」と歳下は驚く。
「是非、君からも学ばせてください」と話は弾む。
その一方で、「なにを馬鹿なことを言ってんだよ、お前」と、明らかに小馬鹿してくるのは同じぐらいの年齢から歳上だ。
人は自分の人生に選択肢がなくなってくると、他人の否定に熱心となるものだ。
何歳になっても歳上は我が心に火をつけてくれる。
ただ残念なのは、私より歳上だから普通に先に死んじゃうだろうから、私のピークを見せてあげられないことかな。