このコロナ禍で、マスクや消毒剤などの衛生管理製品が爆発的な需要となり、供給するほうも我先にと眼の色を変えて、新参者も多数参戦する大乱戦状態だった。
なんでも発売すれば売れてしまうのかと思っていたら、このコロナ禍が日常的な風景となってきた感がある今日この頃は、需要のスパイクを当て込んで発売したものの中には、全然売れていないものもあると聞く。
春先に会社が段ボール箱単位で購入し供給してくれた中国製のマスクは、すぐにゴム紐が切れるものばかりだ。
そのように品質に問題があるものは、需要の落ち着きとともに間違いなく消えていくのだろう。
もう一方で、たとえ高品質を謳った製品であっても、必ずしもこの需要の大波を捉えられないことも理解した。
それを一言で、”売るのは難しい”と片付けてしまうのは、売っている当人たちの怠慢だろう。
”売れているものは正しい”ことに眼を瞑ってしまっている。
大勢に受け入れられている商品は、やはり何かしら良いから売れていると素直に受け入れる姿勢がなければ、”売れているものは正しい”と理解できるようにはならない。
売れているものは大勢に媚びているだけと斜に構えず、まずは素直に受け入れることだろう。
大勢の共感集めに不自由を感じるけれども、売れて開放できる精神もある。
売れているものに対してダメ出しをできるのは、その売れているものも超えることができた者だけの特権と自らを戒めれば、無意味な嫉妬や傷のなめ合い時間を費やすこともない。
人も同じく、よく見ると、コロナ禍を素直に受け入れた人が素早く動いて機会を掴もうとしている。
そこに貧富の格差や過去の栄光やブランドは関係ない。
禍とは、ある意味で機会の不平等を均してくれるものだ。
今この禍のタイミングで転職や起業や独立をする人には注目をしたい。
平時から日陰で地味に備えていた人には、この禍が躍進のきっかけになるのでないだろうか。
”売れている人は正しい”と、そう注目される順番が回ってきたようだ。