「日本」というゲームが存在した。
ルールはシンプルだ。
大学のランクなりの終身雇用がある企業に就職すること。
結婚して子供を持ち、家を構えること。
男は仕事、女は家庭と役割は決まっていた。
通勤時間の長さと、家のローンと、子供の教育が職場での話題なので、遅れを取らぬこと。
家を買ったとたんに転勤を命じられたりもするが、会社への忠誠心を試されていると考えること。
仕事は成果を出すよりも、長時間働くこと。
このゲームの参加者には勝者も敗者もなく、自分と家族は「中流」と意識ができれば満足なのだ。
その「中流」は、誰が定義付けをしているのかを確かめたことがなかった。
この国は平等だから気にしなくていいと、昭和から働いている世代に教えられ続けてきた。
いつの間にかゲームが変わってしまったようだ。
同じ企業に勤めていた人物が、この20年間で基本給が5万円しか上がっていないとTV番組で嘆いていた。
ライバルも増えた。
専業主婦と決めつけられていた女性が、柔軟な働き方ができるようになり、職場に進出してきた。
日本の周りのアジア各国も国力をつけ、優秀な人材が日本人より高い給料で働くようになった。
なにしろ彼ら彼女らは日本人よりも長い時間働き、しかも成果を出し続けている。
YouTubeで億単位の収入がある自分より若い世代もいる。
日本人は生産性が低いと叩かれ続けているが、そんなことは90年代から欧米には指摘されていたと今になって知った。
それでも、「日本」というゲームを一生懸命に支えてきた参加者のひとりの私を、国や会社は悪くは扱わないだろうと、ずっと信じてきた。
しかし、残念ながらすでにオワゲーだった。
新しいゲームがとっくに始まっていた。
その新しいゲームの解説書を自分自身で探さなければいけないことも知った。
何歳になっても何かを始めるのに遅すぎることがないのなら、新しいゲームに参加してみよう。
このゲームに逃げ切りはないのだ。
座して死を待つ年齢にはまだ早い。